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月下の一隅[若月まり子の資料室]
[第2夜]
妖精の系譜
井村君江 著
新書館刊 四六判

      こちらにおいで! おお、人の子よ!
      いっしょに行こう森へ、湖へ、
      妖精と手に手にとって、
      この世には お前の知らぬ、
      悲しい事があふれている。

            イエイツ「盗まれた子供」より(井村君江訳)


 アイルランドの詩人イエイツのこのあまりにも象徴的で的を得た切ない一節を知って胸を打たれたのも井村君江先生にめぐり会えたからこそでしょう。
 1993年信州博覧会、バブル崩壊がはじまり十分の一に削られた予算の中で当時最先端のコンピュータ技術を駆使して作り上げられた三協精機(現日本電産サンキョー)のオートマタ「妖精の森」。私たちスタッフが死にものぐるいで半年間奮闘し、渾身の力をこめた作品でした。
 人形たちがやっと順調なステージをお客様に披露できるようになったある日、監修をお願いした井村先生はフェアリークイーンのように優雅に現れ、目を細めて妖精の森に見入ってくださいました。
 井村先生は一年の半分をイギリスのコーンウォールで過ごされていて土地の古い民間伝承としての妖精について研究しておられました。そのせいかほんとうにヒースやエニシダの香る遠い国の草むらにかさこそ飛び交う妖精たちのけはいを知る人が持ちうるのかもしれない大らかな輝きのようなものを放っておられました。
 その幸運な出会いをきっかけに私は妖精のふるさとケルトについて、そこに棲む妖精たちについて、アーサー王ロマンスについて、イエイツの詩についてラース(円形土砦)の岩の扉を少しずつ開けて驚くべき薄明の世界をのぞくようにして触れていくことができました。
 子供のころから妖精好きだった私ですが、その知識はとりとめのないものでした。まずは、ティンカー・ベルや白雪姫の七人の小人たち、人魚姫などに端を発して日本の小川未明の儚い妖精たちに心魅かれ、中学生の時日本に来たギュスターヴ・モローの「妖精とグリフィン」の妖精に傾倒し、高校生の時には森永ハイクラウンチョコレートのシシリー・メアリー・バーカーのカード集めに熱中し、大人になってからは象徴派や19世紀のイラストレーターの絵に夢中になり、ただその視覚的要素を自分勝手な解釈で自分の中に取り込み、自分流のイメージを築いていっていました。
 この「妖精の系譜」をはじめ井村先生の多くの妖精の著作を知ってから、特に19世紀のイラストレーターたちの作品がほとんどイギリスから出版されていたこともあり、その背景にある物語や文化が、何に基づいているかということを知ることができました。
 まだ、文字で書き残されることのなかった古代ケルト……2500年も前から実際に起こった戦争のありさまを伝えたといわれる英雄伝説。深い森や湖のほとりを旅しながら、ハープやリュートの調べにのせて吟遊詩人たちが語り伝えきた妖精物語……。キリスト教が伝えられた後も、そのかげにかくれながら人々の心にいきいきと生き続けてきた妖精たち。そしてシェイクスピアによって美しく視覚化されて世界中の人々に愛されてきた妖精たち。
「妖精の系譜」の中ではケルトの民間伝承、中世ロマンスやバラッド、絵画、文学などあらゆる視点で妖精たちについて専門的で興味深い論考が語られています。
「救われるほどに良くもないが救われぬほど悪くはない」(イエイツ)
 超自然の力を持ち、とても具体的な方法で、良いことをする人間にはおくりものを与え、悪いことをする人間にはいじわるをする。そうかと思うと気まぐれに奇想天外ないたずらをしかけて人間をさんざんな目にあわせるけれど最後には思いがけない幸福を導いたりする。
 この妖精たちの本質は何なのでしょう。
 キリスト教の伝えた理知的な規範は、文明を築く上で重要なものではあったけれど、人間はほんとうのところ、子供のころそうであったような、古代にはそうであったような、規範によって抑えられたくない自然の生きものとしての自由な感性を持たずにはいられないのではないでしょうか。
 でも、そんな妖精信仰の中に生きていていた人たちも、この世では何も満たされないことを知っていたがために、ユートピアであり、死の国であり、彼岸であるフェアリーランドに憧れ、それでもこの世を捨てられないがため、そこを行き来することができると信じた──そうすることが私たち非力な人間が生きていくための知恵なのかもしれません。だから、子供のころから持っていた大らかな夢を、それが叶わないと知った大人になっても、私たちはファンタジーの世界で追い続けるのではないでしょうか。

[若月まり子 2006/10/01]

(注)井村君江著「妖精の系譜」は1988年に新書館から刊行されました。井村先生は妖精についての著書が数多くあります。それらの著作リストと著者の略歴は検索エンジンサイト(ポータルサイト)で検索すると詳細な情報が得られますのでここでは省略します。なお、井村先生は「フェアリー協会」を主宰し、会報「妖精の輪」を発行しています。
1993年長野県松本市で開催された信州博覧会・三協精機館に展示された「森の妖精」(オートマタ)は、その後、諏訪湖オルゴール博物館・奏鳴館にて長く展示されていましたが2005年春に展示は終了しました。「森の妖精」はコンピュータ制御のオートマタ(自動人形)で、若月まり子は人形部分を担当しました。

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