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月下の一隅[若月まり子の資料室]
[第6夜]
ヴィーナスの誕生
La Nascita di Venere
テンペラ 184.5×285.5cm 1477-78年
サンドロ・ボッティチェリ
ウフィツィ美術館蔵

 どこをどうたどっても最終的に行きつくのがボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」のヴィーナスです。
 ボッティチェリは「春」と「ヴィーナスの誕生」で2種類のヴィーナスを描いています。「春」では、豊穣のシンボルとしての衣装をまとい地上に立って花々をはじめ万物を生みだそうとしているヴィーナス。「ヴィーナスの誕生」では、海の泡から生まれ、ルネサンスの時代には人の知性の内に在るといわれた天上のヴィーナス。
 この2点の絵を、20代の頃ウフィツィ美術館で見たときから今に至るまで、ずっと私の最終目標のようなものになってしまいました。
 絵を見たときの感動としては「春」のほうが大きかったのですが、ヴィーナスそのものについては「ヴィーナスの誕生」のほうが圧倒的な魅力を感じました。
 人が心底憧れる浄化された魂の世界が、そのまなざしの彼方に見つめられているからではないでしょうか。愛と美の女神であることをこれほど感じさせるヴィーナス像は他に類を見ないのではないかと思われます。輝くばかりのその姿は、愛と美のほとばしり出る源であるところの神としての、もう他に何も必要としない威厳をたたえています。
 金色の豊かな髪をゆるやかに束ねた曙いろの裸身の女神は、そのまぶしい光を映した貝殻にたたずみ岸辺へとさざなみに運ばれます。その足元から体の重心はあらぬ方向にずれて、地上に立たずとも、自らどこににでも立てるものであることを示しています。
 それにもかかわらず、かたわらには女神に生命の息吹を吹き込むゼフュロスとクロリス、もうかたわらには人間性を表すひな菊の模様の衣を着せかけようとしているホラが描かれています。
「春」もそうですが、これこそルネサンスの哲学者フィチーノの教えに基づいた人文主義の精神が忠実に表現された絵画なのでしょう。でも私は、ボッティチェリがこのヴィーナスを天上に実在すると信じて描いたように思えてなりません。
「美は神の顔の表性の輝きである」というフィチーノの言葉があまりにも直接的に表現しつくされているのですから……。ヴェール・コンポーゼの海を背景に舞い散るピンクのダマスク・ローズがいっそう優雅さをそえています。
 人形の顔を制作していると、いつも決まってこのヴィーナスの面影を追ってしまうのです。何かもう私の記憶の中に、動かしがたい地位をしめてしまっているとしか考えられません。
 ボッティチェリのヴィーナスも私にとって一生刻印されたものであり続けるように思えます。

[若月まり子 2006/11/06]

(注)ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」は、イタリア・フィレンツェにあるウフィツィ美術館が所蔵しています。この絵画作品「ヴィーナスの誕生」はインターネットで見ることができます。
ウフィツィ美術館の表記は Galleria degli Uffiziです。
ウフィツィ美術館のurlは www.pdomuzeale.firenze.it/ uffizi/です。
また、ボッティチェリの画集は数多く出版されています。なお、サイズと制作年はブルーノ・サンティ著「ボッティチェリ」(東京書籍・1994年刊)に拠りました。

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