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月下の一隅[若月まり子の資料室]
[第10夜]
夏帽子
長野まゆみ 著
作品社刊 四六判

 紺野先生のような素敵な先生に出会えたならば、子供たちの未来も大きく変わるかもしれません。
 私ももう一度子供に戻っていっしょに理科のフィールドワークに出かけてみたい……いえ、それよりも一枚の野鳥の羽根か鉱石のかけらになってポケットにしのびこみ臨時赴任の旅先での出来事をいっしょに体験してみたい気分になります。
 紺野先生はひとつの学校でほんのわずかの期間しか教えず、じきにどこか次の赴任先へ旅立っていってしまいます。でもその学校にいる間は、いつも夏帽子を被って子供たちに驚きと喜びを与え続ける、まるで夏休みそのものような解放感とワクワク感をもった存在です。
 紺野先生は理科の教師ですが、たいていの授業を、教室を出てほんものの自然の中で行います。ほんものの自然の空気の中で観察し、音を聞き、感触をたしかめ、においを嗅ぎ、味わうことを子供たちといっしょに楽しむのです。
 紺野先生は子供たちを喜ばせたくてたまらないのです。
 ですから、外に出られないサナトリウムの子供が海を見たいと言ったときには、青いガラスの電球とガラス鉢に張った青インクで色づけした水の波紋の映し出す影で作った海へといざなうのです。
 赴任地への列車の旅は宮澤賢治の世界を思わせるレトロな懐かしさにいろどられています。そんな紺野先生の放つ自然そのものの風のようなオーラは人間の子供だけでなく、野生の動物たちをも魅了します。山深い土地の学校に赴任する時には、きっと狐やハクビシンの子供が人間の少年に化けて、そっと近づきます。
 中でも印象的なのは、ポプラの綿毛が雪のように風に舞う早春の湖で、どうも狐が化けたらしい男の子が先生を小舟で雑木林に案内し、白樺の樹液をごちそうする話です。
 好奇心旺盛で人なつこい小動物が、せいいっぱい人間に化けて少しの間、先生に触れあおうとする想いが何とも可愛らしいのです。
 白樺の樹液については、この物語を読んでからどうしても味わってみたいと思っていたところ、ある日スーパーの紀ノ国屋で瓶詰のものを発見して飲んでみましたが、想像していたものとはかなり違っていました。何か特別なかぐわしい春の香りのするようなものかと期待が大きすぎたわりには、ほとんどただの水にちかいものでした。
 長野まゆみさんはこの物語で、わたしたちがつい忘れそうで、でも決して忘れてはならない大切なものを呼び戻してくれます。ほこりを被って物置のかたすみに何十年も置き去りされていた遠い昔の夏休みの標本箱を開くように、あざやかに甦る子供だった頃の草いきれのするときめきの日を思い出させてくれます。輝くひとみで眺めたみずみずしい自然……きっとそんな時は狐やハクビシンの子供といっしょに野を走りまわって遊ぶことができるでしょう。
 そしてそんな時にはきっと自然の精霊たちも私たちのまわりを飛び交うことでしょう。

[若月まり子 2006/12/04]

(注)長野まゆみ著「夏帽子」は1994年に作品社から刊行されました。現在では河出書房新社より河出文庫の1冊としても刊行されています。

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