ほんとうに美しいものを見るとはどういうことでしょう。
私にとってそれは仕事上の課題でありまた人生上の課題ですが、私に限らず誰もが持っている課題ではないでしょうか。
美しいということはあまりにもとりとめがなさすぎて、感覚的でありすぎるため、頭で考えようとすると私のような人間には大変難しい問題です。
ただ、ほんとうに美しいということは、人間ひとりひとりがそれぞれに感じとるものなのではないかと思っています。そして、私たちがほんとうに美しいものに、自分の至高の望みに行き着くことは、そんなに容易なことではないのではないでしょうか。
「マッチ売りの少女」はそんなまれにみる一瞬の時を体験した少女の物語です。
どうして少女はそれほどのすばらしい体験をすることができたのでしょうか。
大晦日の夜、街の雑踏の中をさまよう少女。凍てついた道を歩く足は木靴をなくしてはだしでまっ赤になっています。古ぼけたエプロンの中とこごえた手には今日誰も買ってくれなかったマッチの束。なんて悲しい光景でしょう。
この世の祝祭に華やぐ人々の行き交う中で、それとは対照的にこの世から見捨てられ、だからこそこの世でありながら、それを超越した特別な場所に行きつつある少女の姿が浮かび上がります。
その特別の場所こそが少女の最高の望みをかなえる美しいものの出現する場所なのです。
みすぼらしい身なりの首筋からたれた長い金色の巻き毛だけが、唯一神の贈り物ともいえる惜しむべき少女の小さな輝く命を象徴しています。
雪がその輝く命を愛でるように、そしてその冷たさでやさしく死へといざなうように金色の巻き毛に降りかかります。もう誰ひとり手を差しのべるわけでもなく、帰るところもなく、少女にはどういう希望も残されていません。
大人であれば死の恐怖のため気も狂わんばかりになり、何か生き延びるための工夫を考え出すことにやっきになるに違いありません。でも幼い少女にはそんなことを考えることなどできません。その状況こそが少女をどんどん究極へと狭める道を歩ませる結果になっていきます。ただあたたまりたいという願いのためだけに、それも体だけでなく、多くは心こそがあたたまりたいと願って一本のマッチをするのです。
何かが他には何の目的もなく、たったひとつの最高の目的にのみ向かうとき、それが何の力も及ばないところに成り立つ時、ほんとうに美しいものを見ることができるのではないでしょうか。
ほんとうに、なんと不思議な火でしょうか!──
その願いの中に込められた切実な夢や憧れはシュッとすられた一本のマッチの炎の中に、すばらしい料理やまばゆいクリスマスツリーとなって鮮やかに美しく立ち現れてくるのです。この時少女の苦痛はもはや消え去っていました。少女はもう現世のあらゆる束縛から離れて特別の場所にたどり着いたのです。今はもうじき襲ってくる死でさえも少女をとまどわせたりなどはできません。
何本かのマッチで方法を覚えた少女は最後に全部のマッチを一気にすって、自分の望みの頂点であったやさしいおばあさんの胸に抱かれ、よろこびと光につつまれて昇天するのです。おばあさんがとっくにこの世の人ではないことを少女は知っています。ですから少女は決してこの世で実現されるおいしい料理や美しく飾られた暖かい部屋や、やさしいおばあさんの抱擁を求めたわけではありません。
マッチの火が消えてしまえば、何もかも火といっしょに消えてしまうことだって何度かやってみてわかっていますもの。
でもあっという間に消えてしまうその炎の輝きの中にこそ自分がほんとうに見たいものほんとうに欲しいものを、真実を呼び出すことができるとわかった時、少女はためらうことなくその中に身を投じていったのです。
その時少女が体験したことがどれほど素晴らしかったのかは誰も知ることができません。きっとそれは少女と同じレベルの体験をするもののみに与えられるものなのではないでしょうか。
それは体験する本人にとってただひたすら忘我の喜びだけなのではあるけれども、何かのかたちで表現されたとしたらそういうものがアートといわれるものではないかと私は思っています。
たとえば、モーツァルトが「レクイエム」の最後を書き綴っていた時、ボッティチェリが「ヴィーナスの誕生」を描いている時、ミケランジェロが「ピエタ」を彫刻している時、マッチ売りの少女と同じような時を体験していたのではないでしょうか。
マッチ売りの少女の見た美しさの極みのようなものを、私は今まで自分の作品作りの中でかつて一度も体験したことはありません。
それは美の探求者のはしくれとしての究極の憧れであり、私が作品を制作するときの最大の目標でもあり、このことが次の作品を制作することの一番の理由です。