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月下の一隅[若月まり子の資料室]
[第15夜]
美しいサーペンタイン池の底には…
The Serpentine is a lovely lake,
「ピーター・パン」より
アーサー・ラッカム 絵
J・M・バリー 作
新書館刊 B5判

 少し前に陽が落ちてすっかりひと気のなくなったケンジントン公園。
 ひっそりとしたサーペンタイン池の水面はぼやけた木立のシルエットや遠くにかかる橋に灯る街灯、そして暮れゆく空と星影を映して深いグレイッシュな青色とすみれ色の濃淡にいろどられています。
 壊れた柵がかたむいて半分ほど沈みかけた水辺……一陣の風が小さなさざ波をひたひたと寄せるあたり……。昼間は子供たちの格好の遊び場だったのに、今こんなことがおこっているなどとは誰も夢にも思わない場所……。
 そう……まさにそんなところにこそ、そんな何気ないところにこそネバーランドの入口が見えかくれするのです。
 妖精たちはかげろうのように、水の中に沈む森から湧き出て、次々と夕闇のとばりが下りようとする空中に飛び立ちます。蛍が妖精たちにまといつくように光りたわむれ水面に映る星影に入り交じり、いえ、池は星さえ沈めているのですから沈んだ星のきらめきに入り交じり、風景の中で溶けあって見分けがつかなくなっていきます。
 妖精たちのしぐさは踊るようにのびやかで、貴婦人のように優雅です。一番上に舞い上がった妖精は、とんぼのような薄い翅を左右に広げて空中でジャンプしながらより高い方向に滑空しようとしています。翅の浮力に一瞬身を委ねて力を抜いた華奢な体に細い細いクモの糸で織ったにちがいない軽やかな布ぎれが手首から品良くそろえた両の足首にからまって、風をはらみ、輪をえがいてはためきます。
 どこかアール・ヌーヴォー好みの趣をたたえる姿です。
 私はこの姿が、このタイプの妖精の原形のように思われてとても好きです。
 妖精たちの昆虫の翅が実に自然に彼らの体の一部として生き生きと描かれているのもラッカムの特徴です。
 このような翅を持つ人間の体というものが描かれるようになったのは遠く紀元前後あたり、魂を意味するプシュケーが蝶になぞらえられていたことから、死者のお墓に蝶の翅をもって飛び立つ人物像が彫られていたという話を何かの本で読んだことがあります。フェアリーのフェとは運命を意味する場合もあると聞きますが、運命の命という言葉と魂という言葉はとても繋がりが深いように感じられ、それが妖精の翅のイメージの始まりではないかと思いを馳せてしまいます。
 ラッカムの妖精たちのしぐさは、どれもこれも体全体から指先一本の動きまで素晴らしいデッサン力でそつなくきまっています。妖精を含めた人物だけでなく、風景、虫や鳥たち、木々や草花、空気感にいたるまで熟練した自信に満ちたスピード感のあるペンさばきで見事に描き出し、透明水彩を巧みに使って幻想的な雰囲気をもり上げています。
 ペンで描くとは失敗したら取り返しがつかないということなのに、ラッカムのペンはためらうことなく走り続け、その結果すべての線は実に精確なのです。
 まるでリズムに乗って踊るような手の動き……。その一枚一枚はそうして一気に書き上げられた一曲の音楽のようです。描く前に鮮明なイメージがすでに頭の中に出来上がっていたのだとしか考えられません。あまりの上手さに絶句してしまいます。
 何度かまねをしてペン描きに挑戦してみたのですが、私はペンの鋭さを扱うことに不向きなようで、一度もうまくいったためしがありません。どうも鉛筆のような柔らかいモヤモヤした線のほうが性格的に合っているようです。
 ラッカムの作品の中でもう一点大好きな「黄昏の夢」では、群をなして日没の空を駆けゆく妖精群が、見ている者もいっしょに飛んでいるような臨場感に満ちてダイナミックな構図で描かれています。
 眼下に広がるすでに闇におおわれようとする公園の黒々とした木々の間にちらちらまたたく街灯が、現実に人間の住む悲喜こもごもの生活の場を感じさせるため、夕空を行く妖精群の不思議な美しさをよりいっそうきわだたせています。
 絵の良さ、持ち味はこんな風にコントラストを描けることです。人形の作品の場合、どうやって幻想性をきわだたせるか考えあぐね、個展ではよくちょっとした背景などを作るのですが、何しろ展示の時間があまりにも短いので(ギャラリーでは前の人の撤収を終えてから展示にとりかかりますので、正味2時間ほどしか時間がありません)絵のようにはなかなかうまくいきません。
 ラッカムは心底自分の手がける物語を愛したのだと思います。その物語の挿絵を描くときには、もうすっかりその物語の中を生きて夢中になっていたのでしょう。
 仕事と人生がぴったり一致した、自分の才能を正確な場所に見出すことのできた、幸福な作家……そんな風にも思えてしまうくらいラッカムは、一生を通してラッカム風ともいえる素晴らしい世界を描き続けた人です。
 私は今までにどれだけたくさんのことをラッカムから学んだかしれません。今後も自分のスタイルを見つけつつラッカムのエッセンスを学び続けていきたいと思います。

[若月まり子 2007/01/08]

(注)アーサー・ラッカム(Arther Rackham, 1867-1939)の「美しいサーペンタイン池の底には森が沈んでいる。ふちから水底をのぞくと、木が逆さまに生えているのが見える。そして夜になると星も沈んでいるという」は、「ピーター・パン」の挿絵として描かれました。この「ピーター・パン」は高橋康也・高橋迪訳で1982年に新書館から刊行されました。
また、この絵は画集「夏の夜の妖精たち」(トレヴィル発行・リブロポート発売・1996年刊)にも所収されています。
絵画作品「黄昏の夢」(Twilight Dreams 34×52cm 1912年)は、リヴァプール大学美術館が所蔵しています。この「黄昏の夢」は画集「夏の夜の妖精たち」とJames Hamilton著の「Arther Rackham-A life with Illustration」(ロンドンのPavilion Books社1990年刊)に所収されています。

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