「すべては歌なのです。歌に換えることができるのです。この世に起こるあらゆることがら、喜びも苦しみも悲しみも美しい歌なのだと思ってごらんなさい。生きること自体美しい歌なのだと。だから今あるそのままの心を、あなたの持てる手の技のすべてを駆使して、あなたの作るものの中に歌いなさい。あなたにできることはそれだけなのだから。そして、そのことだけがあなたを救う道なのだから。茫然と立ち止まっていては未来は開けない。歌いなさい、美しい歌を……」
ラフマニノフの「ヴォカリーズ」に宿るミューズが私に伝えてくれることを言葉にしたらこのようなもののような気がします。
音楽に宿るミューズは詩などのように言葉を介する段階をとばして直接体の感覚に働きかけます。
ミューズは最初哀愁に満ちてはいるけれど、私にはそんな言葉に聞こえる旋律を気高く歌います。もうひとつの旋律が、それに応えるように現実を暗示させるような否定的な暗い調子で寄り添います。
「ああ、そうかもしれないけれど、とても私には難しすぎます……」
やさしいミューズは繰り返し同じテーマを少し転調して今度は同情的に説得するように語ります。
でも最後にはやはり「歌いなさい、美しい歌を……」と呼びかけるのです。そう繰り返されると、そうか、私の行き場所はここしかないのか……という思いにかられます。
初めに歌われた高らかな流れるような旋律に次第に遠いところをさまようようなあきらめのの調子が混じりますがミューズは説得をやめません。
でも迷えるもうひとつの旋律はためらい続け、そのたびにミューズはいっしょに沈みがちになりながらも最初の主題を繰り返し続けます。
ミューズのあくまでも美しい主旋律とためらいがちに女神を追い求める副旋律のやりとりが、そのまま自分に投影されているように感じられます。
最後に副旋律はついにミューズの主旋律を受け入れてなぞるように奏でます。
「あなたの言われるとおり、すべてを歌にして私の作るものの中に歌いましょう。わかっています。私にはそうすることしかないのですから……」
ミューズはうなずきながら副旋律を賛美するように美しく重なり合うハーモニーの中に消えていきます。
こんな言葉を残して……
「そう……それがあなたの喜びとなるのです。この世で起こることはすべて夢……でもその夢こそが生み出す力の源となるのです。そこではあなた自身の手で作り出すものだけがあなたにとっての真実。実現できるのはただそれだけ……失われようとする夢をその中にとどめようとすることで、それは悲しみとともに喜びの果実ともなって実るのです……きっと……」
私のような仕事をしている者はほとんどそうではないかと思いますが、音楽はやはりどうしても欠かすことはできません。その日の気分によって聴くものはまちまちですし、音楽のもたらす効果さえ効き目のない日々もあるのですが、私にとって苦しい時にも仕事の世界へ誘い込んでくれる曲のひとつがラフマニノフの「ヴォカリーズ」です。
音楽は抽象度が高いために解釈のしかたがほんとうにひとりひとり違います。
でも、そのため他の何よりも自分自身の中に深く取り込むことができ、作者の意図を超えて好きなようにその世界に浸る喜びがあります。
同じ「ヴォカリーズ」を聴いても、ある人は過ぎし日の追憶に身をまかせるであろうし、美しい風景に思いを馳せるのかもしれません。ただ、誰の心にも感動を呼び起こすということだけは共通しています。
私に「ヴォカリーズ」が語ってくれることは上に記したようなことですが、それは私の心の内にある問いかけがそうさせるのに他ならないのだと思います。
良い音楽の中には必ずミューズが宿っていて、どんな問いかけに対しても応えてくれるのですから。それは、その曲を作った作者がミューズから聞いて書いたものなのですから……。
ラフマニノフの「ヴォカリーズ」はいろいろなかたちで演奏されていますが、私はキャスリーン・バトルの声だけのものが一番好きです。ヴォカリーズとは本来そのように歌詞のない曲を人が歌うように作曲されたもののようです。まるで人間が楽器になったかのようなあまりにも美しい透明な歌声……。人が作った楽器から出る音ではない、人そのものから発せられる音の美しさに、これ以上はない繊細さを感じます。
きっと、キャスリーン・バトルの歌声そのものにもミューズが宿っているに違いありません。