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月下の一隅[若月まり子の資料室]
[第21夜]
人魚姫
ハンス・クリスチャン・アンデルセン 著
「アンデルセン童話集」より
岩波少年文庫ほか刊 B6判

 愛に言葉などいらない……。
 想いの強さがきっと愛する人の心を私に向けさせることができるのだから……。
 そう信じた、いえそう願った人魚姫は王子への想いのために自分の声を、言葉を捨ててしまうのです。それがこの物語の悲劇の原因。
 王子がほんとうに探し求めた相手が誰なのかを勘違いしたまま終わる原因なのです。
 15歳になったばかりの夢みる少女人魚姫にとって言葉の重要性などわかるはずもありません。わかっているのはただ自分は海の底に住む魚の尾ひれを持つ妖精、王子は地上に住む二本の足を持つ人間。王子のそばに行くには彼の仲間と同じ二本の足を持つ姿にならなければならないということだけでした。
 人魚姫にとってのさらなる困難は自分の恋する人が自分のことをまったく知らないということでした。
 王子と人魚姫は嵐の海で難破した船から投げ出され意識を失ったものとそれを救ったものという切ない出会いをしてしまったのです。
 助けたほうの人魚姫は王子を恋し、助けられたほうの王子もまた自分を救ってくれた人こそ最愛の人と思い、探すのですが意識を失っていたためにそれが誰かわからないのです。
 そして人魚姫に浜辺に運ばれて目覚めた時、最初に自分を見つけて介抱してくれた他国の美しい姫こそが、その人だと思いちがいをし続けてしまいます。
 一途ではあっても現実に見たこと、体験したことしか信じようとしない王子はあまり深くものを考えない単純なふつうの人間です。ほんとうに自分の心にぴったり重なる印象を追い求めるなら、嵐の海で無意識であった時の深い感覚まで探ろうと努力すべきだったのではないかとも思えます。
 それとは対照的に人魚姫は無謀にもただ愛の神秘だけを信じてそれに命をかけ大変な努力を重ねます。
 二本の足を手に入れて王子に近づくため、想いを伝える最も重要な手段である声、言葉を魔女に譲り渡してしまうのです。おまけにその恋が成就できなかった時には、海の泡となって消えなければならないという結末に至ることまで覚悟の上で……。
 こうして美しい人間の体を手に入れて王子のそばで暮らすことができるようになっても、言葉なしではほんとうにほんとうに伝えたいということはどうしても伝えられません。
 青く深い瞳でいくら訴えかけても、王子にはその意味を読みとることはできませんでした。
 そしてついに王子は浜辺で出会った隣国の姫を最愛の人と思い結婚することになるのです。人魚姫が海の泡とならなければならない時がやってきました。
 そのぎりぎりの時、人魚姫にとって思いがけない救いがもたらされますが、それは最大級の難問が投げかけられことでもありました。
 人魚姫の姉姫たちがかわいい妹のために自分たちの髪を切り落とし、それと引き換えに魔女から王子の命を奪うためのナイフを手に入れてきたのです。
 姉姫たちは妹にいいます。
 このナイフで王子の胸を刺しなさい。王子のあたたかい血があなたの足にかかればもう一度人魚の体を取り戻して海に帰ることができるのよ。王子かあなたのどちらかが今夜死ななければならないの。
 人魚姫は迷います。
 王子に愛されることが叶わないのなら、生きてなつかしい海の底に帰りたい。そこには自分本来の自然で幸せな生き方があるのだから……。
 人魚姫はナイフを握りしめて静かな波にゆられる船で幸せそうに眠る王子と花嫁を見つめます。
 最期の時を告げる曙の光りの中、人魚姫はただひとりどれほどの葛藤に身もだえしたことでしょう。
 命をかけて愛した人は私を愛さなかった。だからといって、どうして自分が生きるためにその人の命を奪うことができるでしょうか。
 ついに人魚姫はナイフを波間に投げ捨て、夜明けの海に身を投げて泡と消えていくのです。
 これを初めて読んだ時、小学生の私はこの結末に大変なショックを受けてしましました。
 そして随分考え込んだものでした。こういう時必ず考えることは自分だったらどうするか……ということです。
 子供の頃は今よりももっともっと死というものが遠く恐ろしいものでした。自分が死ぬのも恐ろしく、王子を殺して生き延びるなど更に恐ろしく、いくら考えても答えが出ないままでした。
 この答えの出ない度合いはオスカー・ワイルドの「幸福の王子」のツバメの状況と並んで子供の時からの私の大問題でした。
 人魚姫の物語は、私にとって自分ではとうてい到達不可能な美しく悲しく気高い存在である憧れのモチーフとして心に残り続けることになりました。
 そしてついに倉敷チボリ公園創設の折に人魚姫をオートマタ(自動人形)の作品として作らせていただき、現在も倉敷アイビースクエア内オルゴールミュゼ・メタセコイアで叶わぬ永遠の恋を青い瞳で語り続けています。
 最近では人魚姫の悲劇を想うたび、言葉の重要さをつくづく考えます。 言葉がなければ人はほんとうに解り合えることはできようはずもないのです。
 言葉さえ奪われなかったら人魚姫はきっと王子の愛を得られたのではないでしょうか。

[若月まり子 2007/07/28]

(注)アンデルセン作「人魚姫」は1836年に発表されました。この「人魚姫」は多くの出版社から刊行されている「アンデルセン童話集」の中に所収されています。

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