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月下の一隅[若月まり子の資料室]
[第22夜]
かるいお姫さま
ジョージ・マクドナル 著
脇 明子 訳
岩波少年文庫刊 B6判

 月の輝く夜、ひっそりとした森に囲まれた仄暗い湖に白鳥のように浮かぶ白いもの……。
 それはひとりの美しい姫。
 この湖のほとりのお城のバルコニーから夜な夜な忍び出ては澄んだ水と戯れる不思議な姫の姿だったのです。
 どうして姫はそんなことばかりしていたのでしょう。姫は水の中でだけしか自分を取り戻すことができなかったのです。
 姫には魔法がかけられて生まれつき体重がありませんでした。
 体重がないということは地に足がつかないということで、いつも何かにつかまっていないと風船のように空に舞い上がっていってしまうのです。そして風でも吹こうものなら花びらのようにどこへでも運ばれていってしまうのです。
 それだけではありません。
 姫は心の重さまで奪われていたのです。
 ですから世の中でどんな悲しいことが起ころうと苦しい目に遭わされようと、ただ楽しそうに笑うことしかできなかったのです。
 でもそれは端から見た様子だけで、姫はどこか心の奥深いところでは、人と同じように地に足をつけて暮らし、悲しみや苦しみを受けとめる感情を持ちたいと願っていたのです。
 父である王様は、国で最も偉い哲学者たちに姫を治してくれるよう頼みますが、誰もどうすることもできませんでした。
 ただ湖の水だけが姫にひとときの自由を与えてくれる救いでした。水の中にいるときだけは空に舞い上がらないですんだのですから。
 そんなある夜、結婚相手を探す旅に出たある国の王子が偶然湖で泳ぐ姫を見つけ、姫の楽しそうな笑い声をまるで悲鳴のように聞いたのです。 他の人ならただの笑い声と聞こえたに違いないものの中に悲しみの響きを感じ取った王子はその出会いの時から、姫の心の一番深いところに潜んでいる切なる欲求の叫びを感じ取ったのかもしれません。
 そうであればこの世で姫とで結ばれるべき唯一の魂を王子が持っていたというあかしではないかと思います。
 王子は、はじめ姫がおぼれて悲鳴をあげているのかと思い助けあげるのですが、体も心も重さのない姫はただせっかく楽しんでいたところをじゃまされたという思いだけしかなく、怒って宙に浮かびながら早く水の中に戻して欲しいと訴えます。
 王子は驚きながらも姫の美しさにもうすっかり恋のとりこになり、どうしたらいいか考えた末、姫を腕に抱いて岩から湖に飛び降りたのです。王子の重さが加わったため「落ちる」という感覚を初めて味わった姫は驚喜します。私には「昇っている」ように思えたわ、と姫は言います。
 それから二人は毎晩「落ちる」よろこびを繰り返し、澄み切った湖の中で泳ぎまわります。
 美しい月が二人を照らし、それをいっしょに見上げても姫はそれが二人のいる湖よりももっと深く青い湖の底にあるのだと言います。
 王子はそんな姫を愛するあまり、一生水の中で暮らしてもいいとまで思うようになります。
 でも幸福な時は長く続かず、ある時姫は湖の水が減りつつあることに気づきます。姫にとって湖の水がなくなることは自分の死を意味していました。
 日々水の枯れていく湖を目にして姫はどんどん衰弱して部屋に閉じこもるようになってしまいます。
 姫は水の精としての性質を持っていたのだとも考えられます。
 姫の命を救うにはどうしたらいいのか、王子に愛の試練がかせられます。
 干上がった湖の底から啓示のように発見された一枚の黄金の板にはこんな言葉が彫られてありました。

   死のほかに、死より救う手立てはあらじ
   愛こそは死、そこにこそ勇気は宿る
   愛は深き墓穴をも埋めつくす
   波の下にありても愛は絶ゆることなからん

 湖の真ん中の穴から水を吸っていたのは姫に魔法をかけた魔女のしわざだったのです。
 魔女は二人の愛に腹を立てすべてを壊わそうとしていたのです。
 魔女は王子に犠牲を求めたのです。
 王子は考えます。
 ぼくがそれをやらなければあの人は死んでしまうだろうし、そうなったら生きていたって何も意味もない。だからやったからといって失うものはないわけだ……と。
 この時点でもまだ瀕死の姫はかけられた魔法のため王子を思いやる心をもつことができませんでした。
 それにもかかわらず王子は姫のため魔女が湖の水を吸っている湖の穴を黄金の板に彫られた予言どおり自らの体でふさいだのです。
 王子の体が穴をふさぐとみるみる湖には水が満ちて、穴をふさいでいる王子の体を沈めていきました。
 でも姫はまだ王子の運命が今どのようなものかを理解できません。やがて王子は水の中に沈み息絶えてしまいます。
 その時はじめて姫に何かが起こったのです。
 邪悪な魔法がその力を失ったのです。
 姫はすでに息絶えた王子を死にものぐるいで湖から救い出し、お城に運び思いつくかぎりの介抱をします。
 やがて愛の奇跡が日の出とともに王子の瞳を開かせたとき、姫は生まれてはじめて床に崩れ「落ちて」泣き出し、涙を流し続けるのです。
 それとともに外では国はじまって以来の雨が降り出し、大粒の雨を降っているのに空には太陽が輝きお城には虹がかかりました。
 そして姫には体にも心にもしっかりとした重みが備わっていたのです。 二人が結ばれて生涯幸福に暮らしたのは当然のことです。
 ジョージ・マクドナルドは19世紀後半の作家ですが、私が子供の頃はまだ翻訳されていなかったので大人になってからこの本を読むことができました。
 ですから姫のかけられた魔法についても子供のころとは違ってすでに自分の体験してきたことを踏まえて感じることができ、そのためよけいに心を閉じ込められた姫が悲しく、その姫のすべてを受け入れて愛した王子の信じられないくらいの素晴らしさに驚いてしまいます。
 19世紀には心理学者に影響された心の内面を扱う作品がいろいろな分野でたくさん生まれたと聞いています。
 ジョージ・マクドナルドも昔のおとぎ話のように主に物質的なことがらを描く物語とは違って精神や潜在意識にまで触れる深い部分をさりげなくファンタジーの形で私たちに語りかける作品を書いています。
 この物語がコミカルで風刺の効いたタッチで描かれているのが、物語の深刻さをかろやかなベールで包んで、考えたい人は考え、考えたくない人は考えなくてもいいんだよと、作者がクスッと笑いながら言っているようにも思えます。
かるいお姫さま」は昨年(2006年)、松屋銀座の個展でジオラマ作品に制作しました。夜空に舞い上がろうとする姫の夜気と夢の色のドレスのリボンを王子がつかまえようとしている湖のほとりでのシーンです。

[若月まり子 2007/08/11]

(注)ジョージ・マクドナルド(George MacDonald 1824-1905)作「かるいお姫さま」は1864年に発表されたフェアリー・ストーリーです。岩波少年文庫版は脇明子訳で1995年に「かるいお姫さま」として出版されました。また、ちくま文庫版は「かるい姫」として吉田新一訳で「黄金の鍵」に収録され1988年に刊行されましたが現在では絶版(未確認)かもしれません。

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